ttp://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-2332.html
危険な会社名
◎ハート~◎~スマイル ◎~ウェイブ ◎ワールド~ ◎グローバル~ ◎リバティー~
◎~カンパニー ◎~ソリューション ◎~コーポレーション ◎社長の苗字が社名
求人のNG写真
◎ガッツポーズの写真 ◎茶髪の事務女が全面的にドアップな写真 ◎高級外車のある写真
◎都会の高層ビルの写真 ◎肩を組合っている写真◎満面笑顔の写真
◎若者ばかりの集合写真 ◎内容に関係ない外人の写真 ◎携帯電話片手にキメてる写真
◎外人がワイングラス片手に満面の笑顔の写真◎外人が指差している写真
◎若者が上を見上げている写真◎モデルっぽい女の子ばかりの写真
◎茶髪でつなぎを着た作業員の集合写真
◎写真の代わりにキャラクターの作業員 ◎茶髪の事務女が真中にいる写真
◎若者中心でおでこ全開、前髪を後ろで固めている写真
求人のキーワード
◎感動型経営!感動創造を目指します。(高離職率低賃金、高卒中心)
◎ベンチャースピリットのある方募集!(高離職率低賃金、使いまわし)
◎25歳、元警察官、彼は現在保険営業をしています。(飛び込み営業でノルマを課します)
◎高卒後、3年後に俺でも係長になれた。実力があれば年齢は関係ありません。(DQN中のDQN)
◎正社員登用の道あり(実際のところありえない)
◎人材ではなく人財を求めています。(ノルマ多し、錆残多し、人は奴隷)
◎女性も頑張っています(女は定時で帰宅、男は錆残の会社)
◎サービス精神がある方(サービス残業精神のある方)
◎幹部候補募集(薄給でも責任重大)
◎未経験大歓迎(誰でも出来る仕事です)
◎若い仲間が頑張ってます。(離職率高し)
◎大幅な事業拡大のため募集。(年中人手不足)
◎あなたのがんばりを評価します。(歩合率高し)
◎家庭的で働きやすい職場です。(同族企業です)
◎とても風通しの良い社風です。(ワンマンな社風です)
◎中途採用のハンディはありません。(入れ替わり激しい)
◎大変やりがいのある仕事内容です。(アホくさい内容です)
◎店長をはじめ愉快なスタッフがあなたを待ってます。(店長は元バイト)
それが労働であるのかどうかは事後になって、
それを「贈り物」として受け取る他者の出現を待ってしか判明しない。
労働は価値を創出する。だが、価値というものは単体では存在しない。
価値というのは、それに感動したり、畏怖したり、羨望したりする
他の人間が登場してはじめて「価値」として認定される。
ガレージにこもって基板にはんだ付けいる青年がしていることが
「労働」かどうかはその時点ではわからない。
(短期的スパンを取れば、消費するだけである)。
だが、彼の作った電子ガジェットが爆発的に売れて、
気がついたら大富豪になってしまったということになると、
回顧的には「あのとき彼は労働していたのだ」ということになる。
どういう行為が「働く」ことであり、
どういう行為がそうでないのかは、働き始める前にはわからない。
働いて何かを創り出した後に、それを「欲望する」他者が登場してきて
はじめてそれは労働であったことが遡及的にわかるのである。
労働の価値は労働そのものに内在するわけではない。
その成果を享受する他者たちによって事後的に賦与されるのである
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マルクスの最大の罪は、共産主義そのものではなく「労働=価値の創出」という間違った定義を敷衍させたことだというのはよく言う話。そして産業社会はこの労働の価値を「保証」する形で発展してきた。特に日本はそうだ。農家の定額買取などをずるいと批判している大人は何もわかっていない。
そしてそういう人達は同時に「負の労働」について全く認識していない。がんばればがんばるほど赤字を生む。誰もが不幸になる。そういう仕事のやり方があるということを全く考えもしない。「最近の若者は」とつぶやくオヤジとスパマーは割と似ている。なぜならこれは誰も幸せにしないからだ。ただの自分の地位に任せた「精神的充足の搾取」である。そうつぶやいた親父一人が満足しているのである。
しけたオヤジのいう労働の定義は無視しよう。オヤジ達は、自分のつまらない働きぶりが、仕事を苦行のように捕らえるやり方が、それを強要することに何の違和感も感じぬ愚かなシャチクぶりが、どれほど若者のやる気を奪っているのか全く理解していない。
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■島﨑さんは、おそらく皿洗いをしているときすでに、賃金以上のものを、未来において彼が開発したスキルの恩恵を受益する人々のことを想像するというかたちで、前倒しで受け取っていた。自分がなした仕事から何らかの喜びや愉悦や利益を受け取る他者がいつか出現するであろうという予測をもてるならば、それは、労働に今ここで価値を加算する
10年泥のように働けは間違っていない。価値は後で加算される、それまで全力で努力せよって話だ。間違っているのはそう発言する人達の提供する労働が、将来的な価値を全く保証しないということだ。いやそれでは生ぬるくて、将来的に価値が落ちることを支えるために奉仕せよといってる言うことだ。せめてそこが変わっていくことを受け入れる器量があれば別なのだが。
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■出来る人間というのは、彼にできる範囲で、彼の工夫するささやかなサービスの積み増しを享受できる他者の出現を日々待ち望んでいる。受け取り手の態度は彼が機嫌の良い働き手であることを少しも妨げなかった。「働くことの本質を知っている人間」の徴を見取ることが出来る。働く人が、誰に、何を、「贈り物」として差し出すのか。それを彼に代わって決めることのできる人はどこにもいない。贈り物とはそういうものである。誰にも決められないことを自分が決める。その代替不能性が「労働する人間」の主体性を基礎づけている。その「贈り物」に対しては(ときどき)「ありがとう」という感謝の言葉が返ってくる。それを私たちは「あなたには存在する意味がある」という、他者からの承認の言葉に読み替える。実はそれを求めて、私たちは労働している。
ちなみに今は、受け取れる「良い客」は少ない。サービス業が栄えているのは、サービス業ならまだわかるからだ。漁業においては全くわからない。だから売り込まざるを得ない。教育が必要だ。教育とは、受け取れる人間を増やすことである。もちろんいい方向ばかりではなく今までのように「画一的な商品を受け取る」ように教育される場合もある。教育の第一義は「働く人」を増やすことよりもっと重要なのが「働く人」へのインセンティブとなる「受け取り手」を増やすことである。エリート社会が必要なら、エリート社会を正しく評価できる人間を育てる必要がある。これはマスメディアには不可能であることはコリン・ウィルスンが喝破したとおり。新しい時代に向けた内面的な指針を与えることが必要である。そしていつまでたっても変わらない両親はその害にしかならない。しかし親を責めてはいけない、親へのインセンティブを与えるのは企業であり、企業に指示を出す国の最重要任務だから、そこが充たされないとどうしようもないからだ。
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「働くとはどういうことか」、働くとどのような「よいこと」が世界にもたらされるのかを知っているのは、現に働いている人、それも上機嫌に働いている人だけなのである。レヴィ=ストロースが言うように、人間性を基礎づけるすべての根源的制度の起源は闇に消えていて、私たちは人間である以上、それに直接には決して触れることができない「どうしてそんなことをするんですか?」とどこまで遡及的に意味を問うても、「それはお前が人間だからだ」という以外の答えに出会うことはないのである。「働くとはどういうことですか?」と問うのは「人間であるとは、人間にとってどういう意味をもっているのですか?」という問いと同じようなトートロジーである。
「シャドウワークス」という本に「ヴァナキュラー」と「コンヴィヴィアル(いきいきとした共生)」という概念がある。コンヴィヴィアルな社会や生活が成立するには、人々がコンヴィヴィアリティ(共生感覚)を探求する意欲をもてるようにしなければならないと考えて、それにはシャドウ・ワークを解放し、さらにはヴァナキュラーな価値を闇の中から人々の手に取り戻さなければならないという考えが私は好きだ。
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労働の目的は「人間の人間性を基礎づけること」である。端的に言えば「大人になること」である。より具体的に言えば「適切なしかたで贈与が行える人間になること」である。私たちの時代において「働くとはどういうことですか?」という問いが繰り返し口にされるのは、「贈与できるものになる」ことが人間の本質であるということを誰も言わなくなったからである。。経済活動が重要なのは、経済活動に参与するプレイヤーの「資格」に「市民的成熟」という条件が付されているからなのである。幼児でも参加できるなら、その経済活動は人類学的な意味ではもう「経済活動」ではない。
というわけで、人間性を求められる。私は人間性が非常に乏しいので低い価値しか得られないのだが、せめて私と違って人間性に優れ、多くの人が喜ぶものを作った人には適切な対価が支払われるといいな、とは思ってる。とにかく定義は何でもいい、まずは自分で動ける定義に変えることだ。大人の、そしてその大人の上にいる企業の唱える労働の定義はクソなので最初から無視して自分で考えよう。その上で、自分がうまく動けるようになったら、ちょっとずつ人の為に近づけていこう。正直なところ、今の貨幣システムではそれが非常に難しい。むしろ貨幣システムこそが「狂った価値観」の源泉なので、最終的にはこれを倒すことが目的になるが、とりあえず今はそのようなことを気にせずにがんばろう。
本質はともかく、今評論というものにコマーシャリズムがあたえるインセンティブの邪悪さは異常。
ttp://d.hatena.ne.jp/keitaro2272/20091216/1260911668
●●のポイントは肯定的な評価をせず、決して賛辞しないことです。そして、責任を問われないために建設的な提案をしないことです。最もな意見を言い放ち、自身の満足を得ると同時に相手に同調を強要する。リスクを負って懸命に作り上げたものを中傷し、価値があればあるほど無碍にすることで、自身の意見の価値を高めていくことができます。そして、その意見が影響して価値が失われたとき自分の●●の権威を知らしめたとほくそ笑み、したり顔で言うのです。『私の言ったとおりでしょ』
●●家は誰のために、そして何のために評論するのでしょうか。
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参考文献の「メディアコントロール」は、アメリカの陰謀について触れた非常に面白い本なのだけれど、この部分だけ取り出してくるという発想はなかった。ちなみに、この部分はネ「読者」側にしか立っていない人にも当てはまると思う。(私のようにはてブとタンブラーしかせずに、自らのリスクで自らの意見をちゃんと伝えていない人もそうだし、うちの父のようにテレビを見て政治批判したら国の為に何かしていると勘違いしてるひともそう。自分でリスクをとらないやつに本来は発言権などない。でもまず発言者にならなければ、一生底から抜け出せない。 だからこうして引きこもって目に見えないところで発言させてもらってます。お目汚しすみません。)
大人たちは「若者がけしからん」というのが仕事ではなくて、「けしからん若者を作り出す歪んだインセンティブ」を修正することが必要であると常日頃から思う。あ、そういえば「インセンティブ」買ったのにまだよんでなかった。読もう。
ttp://d.hatena.ne.jp/kaien/20091214/p1
ファンタジーにおいては、奇跡は起こる。不幸なシンデレラは救われる。醜いあひるの子は白鳥に成長する。しかし、リアリズムにおいては、奇跡は起こらない。現実は、どこまでも白々と、現実である。さてこのどちらを重視するかについて
1.真実○ 事実○ アイデアリスト(理想主義者)
2.真実× 事実○ リアリスト(現実主義者)
3.真実○ 事実× ロマンティスト(空想主義者)
4.真実× 事実× ニヒリスト(虚無主義者)
と分類するとすると、
『グイン・サーガ』のアルド・ナリスというキャラクターは、ひとりでこの四つの分類にあてはまる人格を使いこなしていた。通常はリアリストとして振る舞う。そして親しくなったものにはアイデアリストとしての顔を見せる。しかし、それすらも実は仮面であり、この仮面に騙されないヴァレリウスにだけはニヒリストの顔を見せる。だが、かれ自身すらも自覚していないことには、その裏には、さらにロマンティストの顔がある。そして、リアリストであるスカール黒太子はひと目でナリスのニヒリストの顔を見抜き、かれを嫌うが、アイデアリストであるグインはその奥のロマンティストの顔までも見通す。
『グイン・サーガ』という作品は、初め、ファンタジーとして始まった。これは、怪物が出てくるとか、魔法が登場するといった意味ではない。より「真実なる世界」を描こうという傾向がつよい作品として始まった、ということである。しかし、それは、次第にリアリズムへと移行していく。その時点で、ロマンティストであるかんでさんの、作品への「接続」は絶たれる。これも当然すぎるほど当然の話。だが、もう少し「事実寄り」のロマンティストであるぼくや、アイデアリストであるペトロニウスさんは、それでも作品への「接続」が絶たれなかった。
栗本はさいごまで、商業的にはより実入りの少ないBL作品を書くことをやめなかった。それどころか、彼女の代表作である『グイン・サーガ』すら、その題材に選んだ。なぜか。ニヒリストならいうだろう。栗本はやおい好きのあまり、妄想と現実を区別できなくなったのだ、と。ロマンティストであるぼくはそうは考えない。こう考える。BLとは、彼女にとって、最大のファンタジーに他ならなかったのだ。BL作品は、栗本にとって、ひととひととの完全なる相互理解、という奇跡が起こりうるファンタジーの世界であったそれは、存在の生存闘争と、魂の救済の物語だったのだ。長大な『グイン・サーガ』がリアリズムに移るにつれ、おそらく、彼女のなかは、ファンタジーを書きたい、というフラストレーションがたまっていったのだろう。そして、書いた。ただそれだけだ。
———————————-
<ここから私>
グインサーガを最後まで愛し続けるということは、「すべてよし」の領域を知っていることが必要なんだろうか。なんとなく「シーシュポスの神話」を思い出すような話。このように読めるようになりたいが、とりあえず9巻で止まっているグインをさらに読みすすめたくなった。
私は真実にも事実にも、どちらにも○をつけることが難しいように思う。あえていえばリアリスト寄りではないかと思うが、それは真実を信じるのが怖いという程度の話である。それどころか自分が拠りどころとしている実際には空想的であるのではないだろうか。昔は貧困や飢餓感がいやおうなくリアリズムをはぐくんでいたのだろうが、ある程度豊かになった現在では、殆どの人は意識することがないから、常に意識を持っている人からしたらみんなニヒリストに見えるのではないだろうかなどと思う。
この年になって今更かよ、という感じではあるがどちらももうちょっと考えてみたい。いやこの言い方ではやらないから、まず自分が好きなキャラがどういうものであるか振り返ってみたい。
問題は30日ルール以前。すぐに指摘できない記者達
・天皇陛下が行っていいのは「国事のみ」です。憲法で定められています。
・助言は内閣によって行われますが、「小沢は内閣の一員ではありません」。
・天皇陛下が接受するのは「大使と公使」。習近平国家副主席は大使でも公使でもありません。
・よって、今回の謁見は国事ではありませんし、小沢が絡んでいるなら越権行為です。
・内閣が国事行為以外に天皇に対し助言と承認を行う権能は存在しません。
(憲法3条は国事行為に関してしか規定していないため、内閣が私的行為に関して天皇陛下を縛り付ける権限は無いのです。)
ーーーーーーーーーーーー
1.「年内決着です。やります、信じてください」
↓
2.「というのはむこうが勝手に思ってるだけ」
↓
3.「という報道がありますが信じないでください」
↓
4.「と思ったけどやっぱり別の手考えようよ」
↓
5.「と言っても元の方法が死んだわけじゃないよ」
↓
6.「やっぱ年内の決着は無理っす」
ーーーーーーーーーーーー
鳩山ってもう「民意の鑑」だろ
国がどういうものか分からない、
可哀想な人には優しくしろ、
官僚は悪い気がする、
日米安保は悪い気がする、
自民が日本をダメにした気がする、
政権交代すれば良くなる気がする、
――誰かがなんとかしてくれる
こんな感じの、日本人の幼稚な政治観が
乗り移った概念上の存在に見えてきた
ーーーーーーーーーーーーーーー
実は言いたいことはこの上ではなくてここから
ttp://jp.techcrunch.com/archives/20091213the-end-of-hand-crafted-content/
「メディア産業は危機に瀕しており、勇敢な革新者だけが救われる」というReuters、Rupert Murdoch、Eric Schmidtらの説は正しいと思っている。個人的には、優秀なジャーナリストにとって最良の道は(勤め先のメディアにとって最良の道ではないが)、さっさと独立して自分自身の名前を新たなニュース・ブランドにしてすることだと思っている。
私はこの意見に反対なんだよね。もっとも記者もこれをよしとしているわけじゃない。
それが良いか悪いか、公平か不公平かを論じても仕方がない。とにかくそういう方向に動いているのだ。旧秩序の破壊者自身が破壊されようとしている。起きている事態を無いものにしようとしても無駄だ。手作りのコンテンツは死んだ
ぶっちゃけ私はテレビとか必要だと思ってるクチ、むしろネットのニュースは日経BPに見るように偏りすぎてたり、個人ブログのニュース解釈の信頼性は低いと思っているので(自分ひとりで必要な情報を全て集めることも、そもそもテーマを持つことも出来ないのです)。消費者がみたいものをとかいう守りの姿勢じゃなくもうちょい攻める方向に行ってほしいかぎり。コマーシャリズムにおいて消費者の圧力に負けて貧弱になっていくのではなく(基本的に消費者はバカなのだ。そのバカから金をむしりとろうじゃなく、エリートの気概としてやつらを導くという姿勢を見せて欲しい。ネットの人間は、中途半端なレベルの奴は揶揄するが、誰が見てもすごいものには逆らわないものだよ)
日本SFにおいて、SF小説が、SFの内側に閉じこもって内輪ネタで循環消費を繰り返すようになってしまったのに対して、SFマンガが、スポーツマンガなどとのライバルとの戦いに身をおいて、なによりもSFらしくなったと評されるように、ジャーナリズムも、今のバラエティがクソつまらないうちに、横並びや内輪感覚から脱して、バラエティに迎合するのではなく、逆にやつらを実力で駆逐すべく価値のある報道を行って欲しいところ。実際、最近結構面白い番組増えてきてる。いい傾向だと思う。
アメリカとインフラが違うものの、日本人は、ある種アメリカ人以上にマスメディアを必要としているはずなので、アメリカのようにボロボロにならず生き残ることは出来なくもないはず(とはいえ、2011年テレビ消失のように、ネット側で議論まとめサイトなどがまともに機能するのが先だとシェアをそちらに奪われてしまってもう生き残る道はないのだけれど)。というわけで期待してます本当に。
●日本→ガゼル
俊敏な動きを見せるが、軽過ぎて他の動物を脅かすほどの力はない
●スイス→オカピ
珍獣。なぜここにいるのか、誰にもわからない
●ホンジュラス→蚊
存在していることは音でわかるものの、目につくほどの存在ではないた
●オーストラリア→ハイエナ
大きくて醜い。彼らはどこにでも現れておこぼれを狙う
●韓国→野犬
気性がとても荒い。タチの悪いやり方で噛みついてくる
●北朝鮮→ミーアキャット
危険から身を守るだけで精いっぱい
●アルゼンチン→パフアダー(毒ヘビ)
監督がどの動物よりも強烈な毒を吐く
●メキシコ→カバ
とても有名な動物。しかし、毎回跡形もなく水辺へと姿を消す
●南アフリカ→フラミンゴ
噛むことをせず、相手を飲み込むことばかり考えて失敗する
●スロバキア→イボイノシシ
お金を支払ってまで見る価値はない。ただし、ある程度の殺傷能力は持っている
●フランス→チーター
見えない速さで手を使う(チート)。これ以上、説明の必要はないだろう
ttp://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2009/12/post-8f93.html
ttp://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20091022/207856/
<良心=常識=掟=制約>
掟とは「城」であり「訴訟」であることに気づく。良心、という言葉に置き換えてもいい。ただ、良心、というと道徳的だとか誠実さといった意味が伴ってくるが、そういう道徳性を抜いた、規範的なもの。善悪やら道徳を超えたところで、自分を律しているものだと考えてほしい。「掟」とは、いわゆるルールだとか法といった外的なものではなく、自分は「これだけだ」と認める限界のようなものなのだ
たとえば、身体的な能力で喩えるならば、ジャンプで届く(だろうと自認する)高さや、ダッシュで間に合う距離感が、これにあたる。精神的なものだと、やっていい(と自分で思っている)ことの限界が、これにあたる。正当防衛・緊急避難だと(自分で)判断している行為がその例だ。そして、人は日常において、自分でやれると見積もった能力や、自分でやってもいいと判断した範囲で行動を選択する。
しかし、理不尽な状況に放り込まれたら、どうする?「城」が呼びつけたにもかかわらず、中へ入れてもらえない状況や、「訴訟」されているにもかかわらず、その理由を教えてくれない状況になったら?当然、「やれる能力」や「やってもいい範囲」を拡張しようとするだろう。もし、自分の良心そのものを疑い、問いかけることをしなかったならば、ただただ待ち続け朽ち果てるだろう。
あるいは、自分の限界を疑い、それを超えようとしなければ、その前で終わってしまっていただろう。しかし、カフカの描く主人公は、無為に待つようなことはしない。積極的に行動し、良心を、能力を、法を超えようとする。自分の外側に存在する、物理的な「門」を破ろうとする前に、まず、それをやってもいい(仕方がない)と自分の内側で律しているものを解除しなければならないのだ。あたしのココロ、解錠(アンロック)というやつ。ただし、キャラなりするのであれば、「いままでのわたし」から変わる必要がある。「城」であれば、測量士としての立場を、「訴訟」であれば銀行家としての地位から離れなければならない。だが、「何」に成るのだろうか?測量士や銀行家でない立場になるんだ。日奈森あむの「なりたいアタシ!」へのキャラチェンジとは違うのだ。自己否定による自己実現なのだから。
理不尽な状況から脱するために解錠(アンロック)しようとしたのに、今度は解錠(アンロック)することによって、理不尽だーと思っていた立場(測量士や銀行家)がなくなってしまう。じゃぁもう理不尽じゃないじゃん。解錠(アンロック)そのものが条理(=地)を越えた不条理(=図)なのだから。地と図の反転は、ここでも見つかる。「城の中に入る」「訴訟を止めさせる」目的のために取った手段が、その目的の前提を取り消しているのだから。
自分で自分の「立場をなくす」――それも、かなり後ろ向きの理由で。自分を「否定」することによってなされる自己実現(なんという矛盾!)。現在の○○の状況(○○にはお好きな言葉をどうぞ)と似合っており、独り、深夜、ほくそ笑む
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この自己否定による自己実現というのは、親父の世代によく言われていた言葉。まだ40前であろうdainさんが自力でこの言葉にたどり着くその思考の過程がすごい。これは「獣の奏者エリン完結編」における最重要テーマ(あるいは「ハンターハンター」のゴン)であって、こちらでは非常にわかりやすく描かれている。ただし私がそれを理解することがが可能だったのは、エリンの特殊な生い立ちゆえにである。それまで普通の青年として描かれていた主人公が「不条理(笑)」に巻き込まれた話から見いだせるかというと私には難しいと思う。さすがだ。
ttp://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20091205/p2
凡人でも、最初から、高いステージに能力を持って現れる天才に、勝つ方法が一つあります。それは、自分が今いるステージで、「出来ること」を淡々とやり続けることこれ「のみ」です。人生には、その「時」にふさわしい努力があります。そして、その努力の方向や処方は、自分で大体分かるはずなんです。
まず形から入れ!(=憧れの思いは消すな!)
憧れは、ばかばかしくても小さな模倣から入れ!
「そのステージ」で必要な苦悩と行動を「蓄積」した人には、次のステージに向かうためのある種のinvitaition letterが訪れる。これがアンテナや憧れという「次のステージへの模索」がない人には、これが、「招待状」だということが分からなくなって停滞してしまうんです。この招待状に気づくためにVISIONがあるんですよ。願いがあれば叶うのではなくて、目の前の必要な、自分のレベルに合った努力を極限までやりつくした人だけに、次の招待状が届き、、、その届いたときにそれが「チャンスなんだ!」「これが勝利の女神の前髪なんだ!」と気付く機会を与えてもらえるんです。VISIONの必要性とはそういうもの
<注意書き>
とはいえ、「目の前のことだけ」をやっている人には、ある種の無気力が訪れます。「それはどんなに頑張ってもそのステージより先がイメージできない」という、このまま永遠に「今が続いていく無気力感」です。
とにかく、「目の前のことをやり続けていくと」、やりきった感が出て、「飽きてくるんですよ」。でもそうすると停滞して、やめてしまうんですね。でも僕には、いずみのさんや、LDさんや、海燕さんなどの、このメディアを使って人生をいろんな形でエンターテイメントする先達たちがいました。いや簡単ですよ、ああいう風になりたいなーと思っていると、いろんなチャンスが訪れるんです。
いま思い返しても、ステージが変わるような出来事のきっかけは、「偶然」としてとしか思えません。けど、それは「必然」のように自己認識としても思えます。それは、自分のステージでやりきることをやりきって、アンテナを伸ばして、海燕さんとか自分より先にいる人たちの状況を何となく考えて、「ああいう風に楽しそうだと羨ましいなーというあこがれの気持ちがあった」あったらなんです。
——
<おまけ :後続が示すべきは「開発力」である・・・か?>
父親自身に同化できない(=同じ道を歩めない)」という問題設定に対して、「異なる道で同じものを追求する」ことにより、父親が越えられなかったものを、、、、「超えるのではなく」、父親とともに越えていく・・・つまりは、最後には、父親と横に並ぶものになる・・・という成長の本質の本質が、描かれていることだと思う。ネギの天才が、開発力だ!という部分にはしびれるってもんじゃない。
ttp://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20091209/p2
勝つ、、、とか、成長、、、とか実は間違っている。そこにいる父親も目標の人も天才も、敵なんかじゃないんだ。それは、「同じ目標」を、つまりはこの複雑で正しさが分からない世界で、「それでも善をなし世界を変える」という「生きていく上の最前線(=フロントランナー)」の同盟者なんだ。成長とは、誰かに勝つことでも追いつくことでもない、、、、、「この世界に生きる」という難しさを知る「最前線」に立つまで(=ナルシシズムを超える)までをいうことなんだ。
最前線に立ったら、もう人は何も悩まないはずだ。それは、マクロの使命を知るということ。たとえ、自分がわき役であってもかまわないはずだ、、、この世界に「為すに足るものの最前線」に立てるのならば、きっと、喜んで自己犠牲をできるはずなんだ。そこで本当に大事なものは、「自分」ではなく、「自分の信じたものと仲間と共有すること」だから。仲間というのは、共同体の仲良しクラブではなく、、、「この世界の最前線の過酷さを解決する」ことを共有する同盟者だけを、きっと仲間と呼ぶ、、、。最前線に立てば、おのずと自分の役割と使命が分かるはずなんだ
それがわらないやつは、きっといつまでもナルシシズムの折から抜けられない。
改めて読み返すと、「議論のしかた」でインチキ科学の礼として指定されている全ての条件を充たしている。だめな議論、無意味な意見の生きた実例だ。
1: 自説ありきで、それを証明するという思考パターン<これが根っこ>
2: 「だめなものはダメ」理論(「理由がない」のにわかってしまっている)
3: 原因が唯一つであると考える理論(それ以外の条件を無視している)
4: 自分の議論を知らしめることが手段ではなく目的になってしまっている
5: 反証できる例がない限り自説は正しいとする立場(自説については一切責任を果していないのに、相手には立証責任を要求する)
6: 相関関係と因果関係を混同している
7: 論理的が説明できないため、自説を肯定してくれる実例・実験結果・他国の例などを強調する
つまり、意見すべきとすれば彼女のイデオロギーではなく、そのインチキ科学者の部分であって、インチキ科学者に公に向かって発言させている産経新聞編集委員のリテラシーの低さor偏ったイデオロギーなわけですね。
議論のしかたでは「インチキ科学者が相手の時、相手の論理ではなく意見そのものを否定しようとすると、あなたもインチキ科学者の仲間入りしてしまう危険がある。議論のルールを正しく理解して、しかるべき対応をとりましょう」ということです。
私は自分で言うのもなんですが、議論能力が極めて低いため、本を読みながら曽根さんの文章をチェックしていきましょう。
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外出時間やスカート丈・・・結果に責任
警察が、夜11時以降の公園の立ち入りを禁止するという条例を作ろうとしたら、それは「憲法に違反する」と若者からの突き上げがあった、という。警察は「憲法に違反しません」と言う。警察がこういう防止策を講じようとしたのは、もちろん最近残酷な犯罪が起きているからだろう。もちろん決定的に悪いのは犯人だが、被害者の遺族の気持ちを考慮せずに言えば、最近の日本人は、用心するということをしない。
(全く繋がっていない文章に注目。「犯人が悪い」「日本人は用心することをしない」のつながりの間に被害者の遺族の気持ちを害するものがあるのだろうか。意味不明です。)
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大学生がアルバイト先から、暗くて自分でも気味が悪いと思うような夜道を歩いて帰る、ということが本来は常識外なのである。アラブの保守的な国なら、娘たちは、毎朝父か兄かに送り迎えをされて登校する。1人で外出したり、外国へ旅行したりすることは、考えられない。欧米の国でも夜道を1人で女性が歩いたりすることは非常識な行動だと、なぜ日本では教えないのだろう。
(アラブの保守的な国ならと例を挙げておきながら、なぜか次の文では「欧米の国でも」と、今挙げた実例がどっかにすっとんでいる。つまり先の例は無意味です。そして欧米の国でもについては例として何の説明もないので無意味です。
さらになぜ日本で教えるべきかが書かず、反語表現で「日本でもそのように教えるべきだ」という主張を婉曲に主張しています。本人の中では常識であるため説明がなされていないのでしょうが、理由が示されていない以上無意味です。)
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今でも忘れられないのは、いわゆる「基地の町」の駐車場で、夜半過ぎに1人で歩いていた女性が米兵に襲われて殺された事件である。もちろん襲った米兵が悪いのだが、午前1時過ぎに基地の近くを1人で出歩く女性は、性的商売をしていると思われても仕方がない。それは日本以外のほとんどどこの国でも示される反応だ。基本的な行動の自由と、自衛の手段を講ずることとは、全く別の次元である。というか、行動の自由を口にするなら、十分すぎるほどの用心や、世界的常識を学ぶことができなくてはならない。 ヨーロッパ在住の日本人が驚いているのは、日本の女子校が、どうして制服にあんな短いスカート丈を許すのか、ということである。あれでは男たちに手を出してください、といわんばかりですね、と彼らは言う。先日パリのデパートをのぞいたら、果たして最新ファッションが並んでいた。しかし町行く人たちは、保守的で質素な服装ばかりで、私はすこしがっかりしたのだが、「午前中から最新ファッションの人なんかで歩きません。そういう人は夜遅くです」 「ほんとうに最新流行を着こなすお金持ち階級は、車に乗って移動するんです」という2つの返事で納得させられたのである。
(「例は自分の意見を肯定するために都合よく選ばれているもの」です。逆に言えば、「例は自分の意見が正しいことを示す証拠」ではない。もっといえば、「例を使って何か新しいことを言ってはいけない」「例がなくても自分の意見としてわかってもらえるように書かなければいけない」のが議論のルールです。ところが、この部分では「例」と自説しかない。どこにも理由の説明がない(例はもちろん理由にはなりません。ただの自説の延長だからです)これはいわゆる「外国でやっているから日本も」理論であり、議論力がゼロの人の常套句です。そこに一切の理由を示すことが出来ないからです。あるいは「例」が理由になると勘違いしているからです。つまり無意味です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太ももの線丸出しの服を着て性犯罪に遭ったと言うのは、女性の側にも責任がある、と言うべきだろう。
なぜなら
その服装は、結果を期待しているからだ。性犯罪は、男性の暴力によるものが断然多いが、「男女同責任だ」と言えるケースがあると認めるのも、ほんとうの男女同権だ。親の庇護の下、学校の責任下にある間は、両者とも外出時間やスカートの長さに口を出し、常識を教えて当然だ。それが嫌なら、経済的に自立した上で、どんな結果も覚悟のうえでしなさい、と私なら言いそうである。
極めつけがこの文章。インチキ科学者ですら、最低でも「相関関係」くらいは示すものですが、曽根さんの文章に到ってはソレすらも示されていません。この「なぜなら」が日本語として通用するためには「しているから」ではなく「していると私が勝手に理解しているからだ」と書かなくてはいけません。文章として成り立ちません。無意味です。
また「ほんとうの男女同権」についても同様です。意見自体が間違いとは言いませんが、「本当の男女同権」が「男女同責を認めること」と定義しておいて、「男女同責を認めることが本当の男女同権」と主張しても、それは自身の定義の確認に過ぎず、読み手には何の説明もしていません。無意味です。
次の文章も、意見自体が間違いとはいえません。しかし「当然だ」と書くからには理由が必要です。ところがソレが書かれていません。無意味です。
最後の文章に到っては、主張すらなっていない自分の感情を述べただけです。これについては意見を言うことすら出来ません。「これは私の感情なのだから」といわれておしまいだからです。井戸端会議ならともかく何の意味もありません。無意味です
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とまぁ他人の意見に対して、その全てが議論としては無意味であるなどと、「お前何様だ」という偉そうな指摘をしてしまいました。もちろん無意味だから悪いということがいいたいのではありません。Twitterの発言は6割が無意味らしいですが、そこに何の価値もないとは誰にもいえないことですし。この文章も読み手によっては、或いは何と言っても書き手にとって大きな意味があるのでしょう。ただ、この無意味な主張に関わる必要はありません。そこに意味を見出すのは個人の自由ですが、他人を巻き込んじゃいけない。というわけで、根っこがあまりにも無意味であることを確認したので、これ以上この話題に関わることは避けます。
・・・それにしても、私もブログで長いこと書いていますが、この人には負けるものの、私も大差ない、無意味な文章ばかり書いています。他の人から見たら、私の意見がこれと大差なく見えるのだとすると、それはとても残念なことです。(気楽ではありますが) Twitterならともかく、ブログで何かを書く場合は、もう少し意味のある、ちゃんと理由を示した上での主張をすることが必要だと再確認する次第。