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Jan
1st
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ビジネスのパイの話@某セミナー

世の中には、どうやら「センスのある人」と「センスのない人」という二種類の人間がいるらしい。そんなことを、多くの人が感じているようです。

例えば、音楽のセンス。例えば、ファッションのセンス。例えば、色彩のセンス。例えば、お笑いのセンス。例えば、記憶のセンス。いろんなセンスがあるらしいのですが、じゃあその中に、「ビジネスのセンス」というのもあるんじゃないの、と、ビジネスをやっている人間のほとんどは思っているようです。僕もご多分に漏れず、そう感じることは多々あります。

仕事柄たくさんの人に会いますし、その多くは既にビジネスをやっているか、その予備軍の方たちだから、余計に感じるのかもしれません。当然、僕は絵のセンスとかそういったものについては語る資格を持たないので、ここはやはりビジネスに特化して、センスというものを考えてみたいと思います。ビジネスのセンスがあるやつ、ないやつというのは、一体どうやって峻別されるのか。音楽やファッションと同じく、そりゃあ山ほど基準はあるのですが、その中の最もわかりやすく、なおかつ精度の高い、つまりセンスのあるなしがおおよそ外れない、ひとつの基準についてお話ししようかなと思っております。

ここに当てはまってしまったら、ビジネスで成功するのは、かなり険しい道になるかもしれません。緊張しながら先を読んでください(笑)。

センスがない人というのは、一般的によく言われる、いくつかのわかりやすい特徴を持っています。例えば、できない理由ばかり探しているとか、言い訳ばかりしているとか、他人のせいにばかりしているとか、そういったことですね。ただ、それもももちろんあるのだけど、個人的には少し違う特徴を重視しています。今挙げたげような、言い訳がましいとか被害者意識が強いとか、そういった特徴は、ビジネス云々ではもはやなく、単に人間としてのセンスが皆無なのであって、その意味でどーでもいいことです。そもそも生き物として、センスがない。生き方にセンスがない。そーゆーことだから、ここでわざわざ語る価値もありません。


ではビジネスに特化してセンスがない人の特徴というのは、どのようなものがあるのだろうか、ということになるのですが、個人的に一番わかりやすく、しかもあまり外れないと感じているのは「ビジネスはパイの食い合いである」と考えているかどうかです。こう考えている人は、端的にビジネスセンスがないと、少なくとも僕は判断します。

短期的にはまぐれ当たりが出るかもしれませんが、長期的には、このように考えてビジネスがうまくいくはずはないし、実際そのような人を僕は知りません。ビジネスは売り上げさえあがればいいんだ!という、人として問題のある価値観を持っているのであれば、もしかしたらある程度うまくはいくのかもしれませんが、それでもいつか崩壊すると、僕は感じています。その象徴が、いわゆるリーマンショックでしょう。まあ何にせよ、パイの食い合い、などという幼稚な発想は、センスのない人特有の思考だということです。なぜそのような思考をしている人にはセンスがなく幼稚なのか、その理由は大きく言って3つあるのですが、今からその各々を説明していきます。

さて、上のような話を聞いて、さらにセンスのない人は「じゃあビジネスに競争なんてものはないのか」という短絡的な発想をするわけですが、そうではありません。焦らず一歩ずつ進むのが大事ですが、とりあえずはその辺りから考えてみましょう。
 

——

まずお話したいのが、そもそも「パイ」とは何なのか、ということです。そしてこの話が、「パイの食い合い思考」に憑りつかれている人にセンスが感じられない理由の一つ目になります。

「パイ」とはもちろんそれはマーケットのことですよね。ひとつのマーケットは有限であり、ゆえにそこに100社いれば、その100社でのシェアの取り合いになる、と。そーゆー一見もっともらしい発想に基づいています。イメージしやすいから騙されやすい、とはこのことです。「パイ」の大きさは決まっているか?といえば、それはもちろん・・・
決まっています。世界に存在するお金の総量や人間の数は、ある程度の流動性はあるとは言え、有限な値に決まっているからです。その意味で、「パイ」と呼ばれるものは決まっています。


しかし、ここにひとつ面白いところがありまして、パイは決まっている、とか、パイの食い合い、とか、誰かが多く食えばこちらの取り分が減る、といったような考え方をしていると、不思議とビジネスはうまくいかないのです。もちろん、僕が昔から言っているように、ビジネスは人間関係そのものだから、そのような考え方をしている人は、プライベートの人間関係も、うまくいかないことが多い。
そういえば昔から「事業がうまくいっている会社の社長は、プライベートで問題が起こり、その後会社がうまくいかなくなる」なんて言われていますが、個人的には、その原因はこの「パイの食い合い思考」にあると思っています。伸び盛りの会社の社長は、えてしてこの思考に陥っています。だから限りなくパワフルに行動でき、短期的には利益を上げます。その結果、事業は伸び、それが一生続くかのような錯覚すらもたらせる。

 しかし、人間は「奪われれば奪い返したくなる」ものです。「食い合い思考」によって他人から強奪の限りを尽くしていれば、いつかそのつけが回ってくるのが、摂理と言うやつでして。くだらない商品を騙されて高値で売りつけられたときや、店の接客で酷い対応を受けたときなどは、思わず悪評を振り撒きたくなるでしょう。それこそが、「奪い返し」なのです。人間は、どんなに善良な人だって、そういった性質を持っています。もちろん、僕にも大量にあります。だから、結果として、奪い続ける人の周りには、その反動で「奪い返したい人」が集まることになるんです。ビジネスで言えば、クレーマー。あるいは、愛想を尽かして去っていくか、です。クレーマーになることすら価値がないと判断する、よりシビアな人たちですね。食い合い思考の人は、遅かれ早かれそういった人たちで囲まれることになります。まずプライベートで問題が起こるのはそのためでしょう。


会社経営はある程度数字で動く面もありますが、純粋な人間関係は数字が介在する余地は一切ありません。人間関係の破綻は、ダイレクトにその人自身に対する信頼の破綻を意味します。奪い返したい人とは喧嘩になり、険悪な関係になります。愛想をつかしていく人とは、「あなたみたいな、人から奪っていく思考の人とは付き合いきれない」となり、関係が終わるわけですね。そして少しラグがあって、ビジネスにも歪が見え始める。


で、話を戻しますが、パイの食い合い思考を持っている人が、なぜビジネスセンスに欠けると言えるのか。それは、ひとつは上に説明した「ビジネスの根本である人間関係を破綻させるから」ですが、もうひとつ、よりビジネスライクな理由があります。それは、「競合」という概念についてです。
単純に、ビジネスは競争でありその競争に勝つことが大事だ、と信じている人はとても多いです。もちろん僕はそれを否定する一派ではありません。ビジネスに競争はつきものですし、それ故に競合相手というものも確かに存在します。しかしその「競争」は、一般的に言う「パイの食い合い」とは全く異なるものであるということです。何が異なるのか、を一言で言えば、「パイ」が何であるかは事業者にはわからないということです。これは言い換えれば、一体自分が誰と競合しているのか、実はわからないということを意味します。

僕は同じ話を、手を変え品を変え、いろんな形で話すわけですが、この話はブランドの話とか、価値の話とか、そういった話の繰り返しになります。こちら、つまり販売者側からは、自分の競合相手などわかりようがないのです。何と競合しているかは、こちらが決めるのではなく、買い手が「勝手に」「頭の中で」決めるものなのですから。

たまーに、僕は「ライバルはいないんですか?」と聞かれます。大体の場合「いないよ」と答えますが、それは別に「俺様がすごすぎて、相手になるやつなんかいないぜ」という意味ではないんですね。純粋に「ライバル不在である」と言っているわけで、つまり「あんたが思っている人たちや企業たちとは、競合している意識はありません」ということを意味しています。例えば僕の意識としては、強いて言えばYouTubeとかワンピースなどが競合だと思っているわけですが、それだって正しいわけではない。全く競合していないと感じる人もいるだろうし、逆に競合していると感じる人もいるでしょうから。

面白い例では、以前「トヨタの車」と競合していると言われたことがあります。新車を買おうか、僕のセミナーに出ようか悩んだ、というんですね。結果、僕はトヨタの車との競争に勝利したわけですが(笑)、さすがにこの競争は全く予想していませんでした。また別の人で、「車の修理費を払ったらセミナー参加費を払えなくなりました」と言われたこともあります。このケースでは、僕は車の修理費との競争に負けたわけです(笑)競合とは、このように多様なものであり、こちらが勝手に意識していいものではないんですね。そんなのは、単なる自意識過剰ですそれをやってしまえば、ドンドン顧客の視点から外れていくことになり、結果ビジネスはうまくいかなくなります。つまり、そいつにはビジネスセンスがない、ということになるのです。

くどいようですが、これは「競合はいない」なんてことではありません競合は常にいます。ただし、それが誰なのか、がわからないということ。テレビかもしれない、映画かもしれない、車かもしれない、旅行かもしれないんです。コンサルタントの競合がコンサルタントとは限らない。トヨタの競合が日産とは限らない。楽天の競合がアマゾンとは限らない。ヤフーの競合がグーグルとは限らない。そういった話ですね。実際、これらのケースでは、僕の中で競合しているなと感じる組み合わせはひとつもありません。僕が使う際には、全く比較対照にならないからです。使う目的が全く違うのだから、当然「お財布」も全く異なります。仮にヤフーがいくらグーグルをライバル視していたとしても、僕には全く関係のない2企業です。マックかなー、ウインドウズかなー、という悩みは、少なくとも僕には無縁です。何が競合しているかは、各顧客(見込み客)によって異なるビジネスをやるのであれば、この現実から、目をそらしてはいけないのです。

ひとつヒントですが、大体の場合、いわゆる「同業他社」と競合していることはあまりありません。不思議かもしれないですが、これが空論ではなく、現実です。現実は、目的合理的ではありません。「なぜ車の修理代とセミナーが競合するのか?」なんて、合理的な理由は伴わないのです。そんなのの集合が、現実。同業他社との競争は、「競合」とは言わず、単に「価格競争」と呼んだほうが的確でしょうね。単なる足の引っ張り合いですこれが、表面的なものに騙されずに、よくよく考えた結果の、「競合」の実際です。そこに気づかず、勝手に同業他社を競合相手と決めつけて食い合いしようとしているのは、お世辞にもセンスがあるとは言えないのではないでしょうか。


そして最後、3つ目の理由になりますが、それは「科学的思考を盲信しすぎている」ということです。科学、ではないですよ。科学的思考、です。一昨年のセミナーで、僕は「科学的にやってうまくいく時代は既に終わっている」ということを話しました。ようやく最近になって実感してきている人が多いようです。同じようにやっているのにうまくいかなくなった、とか
厳しい時代になった、とか。そんなのは2年前からわかっていたことだし、僕はきちんと背景も含めて説明しているわけで、その話を理解し、そのときから次なる時代に向けて準備していた人は何も困っていないどころか、右肩上がりになっているわけです。「科学の時代は終わっているけど、まだごまかしごまかしうまくいきますよ、風前の灯ですけど」ということも同時に説明したんですが、その「風前の灯」にすがって準備を怠った人は、今急激に危機感を募らせ、人によっては、もう灯が消えてしまっているころかもしれません。

科学的にやっているだけでは、もううまくいかない。そんなことを伝えたかった。科学的にやれば自動的にうまくいく。数字さえあっていれば、失敗するはずがない。こんな旧石器時代のパラダイムをいまだに採用しているわけです。ガチガチの理系の研究者だって、いまどきここまでアホなことは考えていません。「最新の」などと銘打ったものも日々登場していますが、結局旧石器時代のパラダイムのままですから、本質的には、100年間何も進歩していないと言っていいでしょう。100年前は旧石器時代じゃないですよ、というツッコミを真顔で入れてしまう人は、一生ビジネスで成功しないだけでなく、人としても最高にセンスがない人であることは疑う余地もありませんが。

我々はですね、いよいよ科学的な呪縛を超えなければいけないんです。それは、否定するということでは全くありません。踏まえて乗り越えるのです。ビジネスに限って言えば、科学的思考の陥穽にはまることなく、今の時代にふさわしいビジネスのあり方を築き上げなくてはいけない。

「科学的思考?そんなの自分の生活には関係ないじゃん」などと能天気なことを言っている場合では、実はありません。アホ面さらしてテレビを見ている場合ではないのです。我々は文字通り科学的思考に「縛られている」のであって、それはまさに「日常」に入り込んできています。なぜリーマンショックが起こったのか?なぜライブドアショックが起こったのか?なぜ原価20円程度の紙切れが「1万円」であると思うのか?なぜ試験勉強を一生懸命すれば合格すると思うのか?なぜビジネスは苦しくなったり楽になったりするのか?なぜ医療ミスは起こるのか?なぜ「健康だ」と言われていた食品が実は有害だったりするのか?新型インフルエンザ騒動は一体なんだったのか?環境問題とは何なのか?なぜ巷によく言われるダイエットはうまくいかないのか?など、挙げていけばキリがないですが、このようなことは全て、科学的思考の弊害として語ることができます(くどいですが、全て科学が悪い、というわけではありません)。

我々は、もはや科学的思考と独立して生きていくことはできないのです。だからこそ、意識して呪縛から逃れる必要がある。

そういえば中学生の頃、ある中学生向けの数学雑誌を読んでいて「ロールオーバーユークリッド」というタイトルのコラムが連載されていたのを思い出します。要するに、ユークリッド幾何学というものは「あるひとつの」パラダイムに過ぎないのであって、それを越えた世界が数学界には無限に存在している。中学ではユークリッド幾何学が「真理」であるかのように教えられるが、それを越えていかなければ、何もわかっていないのと同じことなんだ、ということを教えていたわけです。今思えば、すごいことを中学生に向けて書く人だなと感心しきりなわけですが、同じことが、ビジネスにも当てはまっています。そして、今のような時代に、それはようやく誰の目にもわかるような形で、現れる。ポーターなどに代表される競争の原理は、暗黙のうちに科学的パラダイムを前提にしていますね。であるからこそ、自ずと、ものすんごい低いところに限界がある。言うとおりにやってもうまくいかなかったり、どうしても机上の空論に感じてしまうのは、そのためです。科学は、現実を正確に描写することはできませんそれを認識し、自分なりに越えなければ、この時代はとても生き抜けないと、僕は思います。


大事なので最後にまとめを繰り返しますが、競合は常にしているということは忘れないでください。しかし、競合相手はこちらからでは確信できない。確信していると思っているのは、センスがない人特有の錯覚です。無知の知、などという高尚な話ですらなく、そのくらいのことは認識していなければこれだけ厳しい時代は生き抜けないだろうといことですね。ビジネスをやる以上、競争は当然(一時的にせよ)しなくてはいけません。しかし、間違った相手との不毛な競争に、勝手に参加してもいけない。それが、ビジネスセンスなんだ、と。

人間関係を破綻させ、間違った相手と必死に奪い合いをし、現実と乖離した科学的思考に固執してメルヘンに生きる。こんなやつが、ビジネスセンスがあると言えるでしょうか?こう書けば誰でも理解できるはずです。しかし、これが「ビジネスって、結局はパイの奪い合いだよね」としたり顔で言っているやつの実態なのです。今日から、そんなやつにあったらこう思うようにしましょう。「ああ、こいつは人間関係を破綻させ、間違った相手と必死に奪い合いをし、現実と乖離した科学的思考に固執してメルヘンに生きているセンスの皆無な不憫な人なんだ。」って。だってそれが、現実なのですから。

Feb
7th
Mon
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ビジョナリカンパニー2 

本書が明確な答えを出せないのは,唯一.「どうしてGreatにならなきゃいけないのか」 という質問に対してのみだろう.

ttp://blog.riywo.com/2009/02/19/141719

これだけ細かくGreatへの道を描き出したところで,「どうしてそんなことしなきゃ いけないのか」に対しては理論的な回答は不可能だ.なぜなら,本の中でも 出て来ているが,それはその人にとって「自明」なのだから. 梅田先生の「好きを貫け」にも通ずるし,ジョブズの 「Your time is limited, so don’t waste it living someone else’s life. 」 にも似ている.どうして偉大になりたいのかなんて聞く方が間違っている. 大方のマスコミとかいう業界にいる人達が真っ先に質問したがることだろうし, そのマスコミに煽動され続けることが至高の喜びである一般ピープルには理解できない ことだろうが,彼らにとって,そんな質問をされること自体が「wasting his/her time」 なのだ.

トートロジー上等.GreatにしたいからGreatにしたい.ただそれだけ. そして,そんな「好きを貫ける」道を見つけることを続けるべき.その道は 最初からはっきり見えるわけじゃない.Goot to Greatな企業がそうであったように, 後から振り返って初めてわかることがある.でも,その中心に常に存在すべきなのは 他の誰でもない,「自分自身」でなければいけない.

すべては通じる.まさにジョブズの言う様に「Connecting the Dots」なのだ.

Nov
21st
Sun
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ttp://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20101119/217180/?top

冤罪が払拭された村木さんのようなケースはまれで、たとえ無罪を勝ち取っても「悪人」のイメージのままという人のほうが多いに違いない。というか、本書を読むまではワタシのなかでの「薬害エイズ」事件の安部氏はいっときの「悪魔」イメージのままだった。

報道が加熱していた頃、安部氏にとっては有利となる情報を掴んでも、記者たちは報道しようとはしなかった。バッシングの嵐の中で、安部氏に味方するようなことは得策ではないという判断が作用していた。

安部氏へのテレビのインタビューにしても、挑発しながら「ストーリー」にそった発言を誘い出し、一部分を繰り返し放映することで、イメージを増幅させていった。結局、安部氏は無罪となったものの、ワタシをはじめ世間の彼に対するイメージが書き換えられることはなかったように思う。勝手にストーリーを作ってしまうということでは、メディアの罪は重たいし、無罪となった後も世間の関心が冷えてしまったのをいいことに知らんぷりといった態度は、マエダさん以上に怖い

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え、安倍さんって無罪になったのか、というレベルの無関心さ。俺ヤバイ・・・

Nov
19th
Fri
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ttp://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20101118/217162/?P=5

最近流行らないが、マルクス経済学では、失業者のことを「相対的過剰人口」という用語で表現している。はじめてこの言葉を知った時、私は、そのあまりにもあけすけなものの言い方に驚愕したものだった。

個々の失業者の心情や真剣度とは別に、失業率という数字は、国全体中で、職を求める人間のうち、職に就くことのできない者の割合をあらわしている。

ということは、誰かが譲歩してより低い条件で職に就くと、その分、現在職に就いている誰かが首になるわけで、結局のところ、全体を見渡してみれば、誰がどう条件を下げたところで、一定の割合の人間は必ずや職にあぶれることになっている。椅子取りゲームと同じだ。椅子に座れない人間が出るのは、誰かがノロマであったり、座る気持ちを強く持っていないからではない。そもそも椅子の数が足りないからだ。
であるならば、社会全体の取り組みとして、椅子の数をきちんと揃えないといけない。こういう場所で、自己責任などという言葉を使ってはいけない。

派遣労働者が各業界で一般的になったことで、雇用の選択肢が増えて、労働市場がより豊かになったと言っている人たちがいる。
雇用者側にとっては、雇用の選択肢が増えたのかもしれない。
が、働く側にとっては、さして状況は変わっていない。
より低い条件の勤め口がいくらバリエーションを増やしたところで、働く者の暮らしが豊かになるわけではない。

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後藤隊長は「正義の組織の Leader」である。ただし、後藤隊長と同じペースで歩むことは出来ない、凡人の集団としての正義の組織の、Leaderだ。だから、彼は普段は昼行灯のように振舞う。原理原則、論理的帰結を直接説明しても、部下も、上司も、追従できないとわかっているからだ。正確には過去においてそれが通用せずに、ゆえに左遷されたことを理解しているのだ。

だから、彼は直接は組織を一体化することにかかわらない。組織を一体化させるのはあくまでも「部下の自律的な相互干渉」によって、だ。ただ、彼はその部下に微妙に影響を与える。それ故に組織から離れかけた部下はいつのまにか舞い戻っている。というかそもそも、組織から離れかけたことを自覚さえさせない。まるでトカマク式核融合炉の中にあるプラズマが磁場に閉じ込められるかのように。

緊急時における後藤隊長は、緊急時故に 説明をしない。彼は、彼の采配が正しいことを持って部下を統率する。でも統率するだけで本当に細かい判断は各人に任せたままだ。

部下が成長したり何かしようとすると、後藤隊長はその分 器を広げる。だから彼の部下はめったに後藤隊長の壁に出会わない。壁が動くのだ。そして拡大された能力も丸ごと、特車二課の能力にしてしまう。

ttp://slashdot.jp/~okky/journal/519501

Nov
3rd
Wed
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「忸怩たるループ01年9月」のコピペ(infoseekサイト消滅と運命を共にしたのだけれどもったいないからこれだけサルベージ)

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およそ、不幸を伝え得ぬというほどの不幸はない。彼は貧しかったから不幸であった。野心に挫折したから、あるいは女に裏切られたから不幸であった。このような不幸には理由がある。つまり告白すれば他人が耳を傾けてくれるのである。だが理由のない不幸(略)をどうやって伝えられるか。しかもそれが日夜生理的に耐え難いほどに身と心を責めさいなむとすればどうしたらよいか。このようにいえば、人はおそらくそれは狂人の不幸、むしろ単なる狂気にすぎないというであろう。だが、私はそのような不幸の実在を信ずる。信じなければ、夏目漱石の作品にあらわれた仮構の秩序は理解できない、という理由によってである。(江藤淳「漱石像をめぐって」)

実は最近ようやく江藤淳「夏目漱石」を読んだので。新潮文庫のやつ。もちろん「このような不幸には理由がある。」というあたりでは加奈とかキミエソを連想するし、「むしろ単なる狂気にすぎないであろう」ってあたりでは、文字通り単なる 狂気として扱われたKanonという作品をわれわれは持っているわけだ。まだ知らない悲しみがるといって少女は泣き続けるんだけれども、そんな悲しみはどこにもないのだ。どうでもいいけど舞シナリオって藤田和日郎「連絡船奇譚」だよな。

交換価値? たとえば郁未が母親が殺されたと口にすればそれだけで聞き手の沈黙を買うことができる。そういうことだ。「告白すれば他人が耳を傾けてくれる」という風に言っても別にかまわない。

最近、竹田青嗣の「苦しみの由来」(ちくま学芸文庫『<在日>という根拠』か講談社学術文庫『現代批評の遠近法』に載ってる)という金鶴泳への追悼文を読み返していたら、どうにも観鈴ちんのことを思い出して困った。いや別に困りはしないのですが。

交換価値という言葉を僕が使ったのはむろん竹田青嗣の影響で、竹田青嗣はこうした用法を小林秀雄からとってきたんじゃないかと思うけれど(たとえば「Xへの手紙」の新潮文庫66頁)、「苦しみの由来」には次のような個所がある。

……また、吃音の苦しみは、“特殊な事情”であって、そのため他人と分かちあうこともできず、ただ自分ひとりで耐えるほかないものだ。つまり、〈吃音〉とは本質的に他者とのあいだで“交換価値”をもたぬ不毛な苦しみである。

これは当時の金鶴泳にとっての吃音であり、現今の吃音者が必ずしもそうであるわけではないだろうけれど。僕に印象深かったのは、「凍える口」のなかの、自分がかくも苦しんでいる理由が吃音だと聞けば人は笑うかもしれない、そのことがいっそう苦しみを耐え難くする、といった言い回しだ。主人公は、いっそ他人に語るに値するだけの事情があればとかえって思う。

竹田青嗣によれば金鶴泳は漱石から学んだふしがあるそうで、実際江藤淳「夏目漱石」の道草を論じた章には次のような個所を発見することができる。

健三は孤独であるが、彼は無意味に孤独なのだ。この点で彼の孤独は、友人を裏切り、親族にあざむかれた、という確実な原因を有する「先生」の孤独より一層悲惨であるといわねばならぬ。

社会的、となぜ付けたのか僕にはわからないが、『現代批評の遠近法』のまえがきに次のような文を発見することはできる。

そこで、彼は、自分の苦しみに何か社会的な意味を与える言葉は注意深くみな捨てて、ただ、その苦しみの実質だけを深く描こうとした。

まとまんないね。本日冒頭引用文のつづきでお茶を濁そう。

仮構は一切の社会性――つまり他人と共有しうる可能性――を奪われている彼の不幸を、社会的なものにしようとする努力、つまり理解されたいという願望から生じる。願望はもちろん自らを狂人と認めて不幸の実在を撤回することの拒否から生ずるのである。……

……他人に伝えにくい気持ちを伝えようとするときの、あのもどかしさを思えばよい。……このようなとき、人は一瞬沈黙して言葉をさがす。だが、言葉がどれも片々と軽くて、何の役にも立たぬと知ると、今度は一転して何かのたとえ話をはじめる。たとえ話は原始的な仮構で、その故にてあたり次第の言葉を並べるよりも本来の伝え難い気持ちを正確に暗示するのである。

麻枝准のシナリオがしばしば寓話性や隠喩性やおとぎ話名のもとに語られるし、それに異をとなえるつもりもないけれど、当の主人公自身が、自身の投げ込まれてしまった状況をおとぎ話的だと痛みとともに認識するというのは、あまり尋常な事態ではない。むしろそうした性質(と見えるもの)は、他人への「伝え得なさ」の表象として読み解かれるべきである。浩平だって長森にさえ「小さなときに、お菓子の国のお姫様になりたいと強く思っていた女の子がいたんだ」としか言えないじゃないか。永遠の世界なんて誰にも言えないので、もし作品が寓話だとしたら二重の寓話を紡ぐほかない。茜は勝手に先回りしてくれるけど。

透子はほんとのことを言っちゃったけど。たとえ話ひとつ編み出す才覚だか神経だかがないのが彼女の不幸というかどうしようもなさで、まあ彼女については僕の出る幕じゃないか。

「たとえ話は原始的な仮構で、その故にてあたり次第の言葉を並べるよりも本来の伝え難い気持ちを正確に暗示するのである。」とあるけれども、たとえ話が、ではなく、たとえ話としてしか言い得ないということそのものが、であり、本来の気持ちの内容ではなく何よりその伝え難さこそが実質なのだ、と言いたい。

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意味がないものを認めないのがニヒリズムであり、全てに意味があると考え(、その限界の外にあるものをポイ捨てする)るのはニヒリズムというかなんか別のもん。
あと資本主義は悪くない。すべてを金銭的価値観とか世間が認める価値でしか測れない奴は嫌いだというが、それはお互い様であって、価値を認めてくれる奴とだけつきあえばよろし。 世界とか社会に取ったらほとんどの人間は無価値だけれど、自分が貢献できるやつとか自分の存在を喜んでくれる人って1億人に1人くらいはいると思う。1人いれば十分。

Sep
26th
Sun
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蛸壺や 

ttp://bipblog.com/archives/995189.html

タコいんだろタコ。8本足の奴。あれって刺身にすると美味いよな?
でもよ、ああ見えて意外と繊細なんだってあいつら。見えないよな?
どんくらい繊細かって言うとな、
気の合わないタコと一緒に水槽に入れると気が狂って自分の足食べるんだってwwwwwww
繊細すぎるだろwwww他人との関わり合い完全否定だよwwwwwwwwwww
8本もあるから1本くらい味見したっていいよねとかやかましいわwwww
でもな、そう考えるとタコっていっつも1匹で生活してるよな。
一人が好きなのかなー、って思って1匹だけ水槽に入れて飼った人が居たんだって。
タコもこれで安心だねー、とか思うだろ?
隠れるところがないからまた気が狂うんだってさwwwwww
どうしようもねーよwwwwひきこもりもここまで来たらあっぱれだよwww
セルフサービスで食べ放題だねってやかましいわwwwwww

Sep
23rd
Thu
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僕が何者かの信者にならないりゆう

ttp://kousyoublog.jp/?eid=2532

ぼっちだから。

簡単にいえば、5から先が私には成立しないのだな。

すげえ納得した。

私が宗教にはまる人を非難する資格はない。なぜなら、私はその機会すら与えられない、その試練に立ち向かう経験すらないからだ。

私は幸いにも就職活動ですら大した苦労をしなかったし、就職先の職場でも、全く他の人たちと親しくなることができなかった。退職時に送別会すら開かれなかったといったら分かってもらえるだろうか。

ぼっちだけのオフ会でもこの話をするとドンビキされるくらいだから、もう私はどう考えても人間的になにか欠陥を抱えているとしか思えない。そういや、SNSの知り合いもいつの間にかいなくなったな。

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ある個人が入信にいたるまでの必要かつ全体で十分となる7つの条件」だという。

1)持続的な、激しい緊張(tension)を経験したことがあり
2)その問題を宗教的なパースペクティブ(観点)により解釈しようとする傾向があること
3)その試行錯誤の過程で自らを宗教的な探求者と位置づけて行動すること
4)人生の転機(turning point)で入会する宗教と出会い
5)その集団内の一人以上の信者と感情的な絆が形成され(もしくは前もって存在し)
6)その宗教以外の人たちとの愛着は存在しないか弱まり
7)正真正銘の信者となるためには、メンバーと集中的に相互交流する必要がある
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ttp://uessai-text.tumblr.com/post/1167524983

この子たちは幼稚園から中学校まで10年以上、同じクラスだから、頭の中での関係性が固定しているんですよ。勉強はあの子が一番、走るのはあの子に勝てるはずがないと。そうではない、やればできると向上心を持たせることが大変です

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うわぁテラひぐらしw・・・・っていうかうち中高一貫の進学校だったけど割とこんな感じだったな。なんで進学校入って勉強せんのって言われるけど、もともと勉強だけがプライドというかアイデンティティの人間が、「お前はこの中じゃ下の上だ」とか言われたらちょっと厳しいものがある。そこで踏ん張れるかどうかはまた別の励ましが要るんだと思う。 すくなくとも私はそこで頭を叩かれて、集団の中でトップになることは早々にあきらめて、●大合格という目標レベル以外は好きな教科、好きな部活を頑張るようにした。 ネットの有名人なんかは中高時代からそうした争いから遥か遠いところで唯我独尊というか己の道を突き詰めようと(周りのレベルが低すぎると感じるから?)している人が多くて、その能力よりも精神の成熟に尊敬する。

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ttp://d.hatena.ne.jp/catfist/20100922/1285175471 MSは思いっきり「藤崎詩織型」に偏った商品だよなあ……。また、『アイドルマスター ライブフォーユー!』では主人公の立場は「ファン代表」だし、『アイドルマスターSP』では961プロ所属アイドルはプロデュースできない。『アイドルマスター ディアリースターズ』に至っては、主人公としてのプロデューサー・男性キャラは登場しない。あー、商品一覧はPROJECT IM@S - Wikipediaを参照のこと。

で、つまり、アイマス2騒動というのは、アイマスの「『誕生~Debut~』型」消費を切り捨てた結果(さまざまなメディアで活躍させるということがアイドルというキャラクターを最大に活かす方法論)、起こったことではないかという話 ディレ1インタビューでの以下の発言は、製作者の「藤崎詩織型」消費財としての『アイドルマスター』認識を示している。 実際問題、ゲームの売り上げより関連商品の売り上げのほうが大きいんだろうさ。

だがそうであればこそ、「藤崎詩織型」消費を見据えればこそ、「原典」たるゲーム版『アイドルマスター』は、「『誕生~Debut~』型」ゲームとして十全の機能を備えていなければならない。 要するに女の子全員プロデュース可能でなければならない。「プロデューサー」として、「身近に」アイドルと接する「体験」がなければならない。「原典」での「プロデューサー」としての「体験」なくして、キャラクターの「偶像」を心地良く消費することはできない

ーーーーーー

原作なき、あるいは原作の完成度がかなり低い状態でのファンディスク商法だったということかしら。っていうかちょっと待て、まだ「原作」にあたるものが出てないんじゃなかったっけか。

しかし、神とか偶像の話をするならもうちょい宗教組織的な話もしてほしかったかもしれない。

何もないころは自由。だからある程度作者が視聴者に自由度を渡せても、あまりにも二次創作や、ファン出自の設定が高まってくると、投げ捨ててしまうか、もう完全にそっちによるかって二者択一を迫られてる気分にはなるでしょうよ。 管理者が必要になってくる、そこで誰がその役目を負うかって時に、製作者が責任感からそうしてもおかしくない。 あるいは2ちゃんみたいに各キャラの代表や組織を作ってもいいがこの「序列」はやらないことにしたんだろう。 ってなると、開発リソースの関係でボリュームは削られたとはいえ、原典のブラッシュアップを図ろうとしてるわけで、切り捨てられた4人分以外のプロデュース体験の質やレベルはむしろ高まると思うんだけれどなぁ。まぁどおでもいいや