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「忸怩たるループ01年9月」のコピペ(infoseekサイト消滅と運命を共にしたのだけれどもったいないからこれだけサルベージ)
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およそ、不幸を伝え得ぬというほどの不幸はない。彼は貧しかったから不幸であった。野心に挫折したから、あるいは女に裏切られたから不幸であった。このような不幸には理由がある。つまり告白すれば他人が耳を傾けてくれるのである。だが理由のない不幸(略)をどうやって伝えられるか。しかもそれが日夜生理的に耐え難いほどに身と心を責めさいなむとすればどうしたらよいか。このようにいえば、人はおそらくそれは狂人の不幸、むしろ単なる狂気にすぎないというであろう。だが、私はそのような不幸の実在を信ずる。信じなければ、夏目漱石の作品にあらわれた仮構の秩序は理解できない、という理由によってである。(江藤淳「漱石像をめぐって」)
実は最近ようやく江藤淳「夏目漱石」を読んだので。新潮文庫のやつ。もちろん「このような不幸には理由がある。」というあたりでは加奈とかキミエソを連想するし、「むしろ単なる狂気にすぎないであろう」ってあたりでは、文字通り単なる 狂気として扱われたKanonという作品をわれわれは持っているわけだ。まだ知らない悲しみがるといって少女は泣き続けるんだけれども、そんな悲しみはどこにもないのだ。どうでもいいけど舞シナリオって藤田和日郎「連絡船奇譚」だよな。
交換価値? たとえば郁未が母親が殺されたと口にすればそれだけで聞き手の沈黙を買うことができる。そういうことだ。「告白すれば他人が耳を傾けてくれる」という風に言っても別にかまわない。
最近、竹田青嗣の「苦しみの由来」(ちくま学芸文庫『<在日>という根拠』か講談社学術文庫『現代批評の遠近法』に載ってる)という金鶴泳への追悼文を読み返していたら、どうにも観鈴ちんのことを思い出して困った。いや別に困りはしないのですが。
交換価値という言葉を僕が使ったのはむろん竹田青嗣の影響で、竹田青嗣はこうした用法を小林秀雄からとってきたんじゃないかと思うけれど(たとえば「Xへの手紙」の新潮文庫66頁)、「苦しみの由来」には次のような個所がある。
……また、吃音の苦しみは、“特殊な事情”であって、そのため他人と分かちあうこともできず、ただ自分ひとりで耐えるほかないものだ。つまり、〈吃音〉とは本質的に他者とのあいだで“交換価値”をもたぬ不毛な苦しみである。
これは当時の金鶴泳にとっての吃音であり、現今の吃音者が必ずしもそうであるわけではないだろうけれど。僕に印象深かったのは、「凍える口」のなかの、自分がかくも苦しんでいる理由が吃音だと聞けば人は笑うかもしれない、そのことがいっそう苦しみを耐え難くする、といった言い回しだ。主人公は、いっそ他人に語るに値するだけの事情があればとかえって思う。
竹田青嗣によれば金鶴泳は漱石から学んだふしがあるそうで、実際江藤淳「夏目漱石」の道草を論じた章には次のような個所を発見することができる。
健三は孤独であるが、彼は無意味に孤独なのだ。この点で彼の孤独は、友人を裏切り、親族にあざむかれた、という確実な原因を有する「先生」の孤独より一層悲惨であるといわねばならぬ。
社会的、となぜ付けたのか僕にはわからないが、『現代批評の遠近法』のまえがきに次のような文を発見することはできる。
そこで、彼は、自分の苦しみに何か社会的な意味を与える言葉は注意深くみな捨てて、ただ、その苦しみの実質だけを深く描こうとした。
まとまんないね。本日冒頭引用文のつづきでお茶を濁そう。
仮構は一切の社会性――つまり他人と共有しうる可能性――を奪われている彼の不幸を、社会的なものにしようとする努力、つまり理解されたいという願望から生じる。願望はもちろん自らを狂人と認めて不幸の実在を撤回することの拒否から生ずるのである。……
……他人に伝えにくい気持ちを伝えようとするときの、あのもどかしさを思えばよい。……このようなとき、人は一瞬沈黙して言葉をさがす。だが、言葉がどれも片々と軽くて、何の役にも立たぬと知ると、今度は一転して何かのたとえ話をはじめる。たとえ話は原始的な仮構で、その故にてあたり次第の言葉を並べるよりも本来の伝え難い気持ちを正確に暗示するのである。
麻枝准のシナリオがしばしば寓話性や隠喩性やおとぎ話名のもとに語られるし、それに異をとなえるつもりもないけれど、当の主人公自身が、自身の投げ込まれてしまった状況をおとぎ話的だと痛みとともに認識するというのは、あまり尋常な事態ではない。むしろそうした性質(と見えるもの)は、他人への「伝え得なさ」の表象として読み解かれるべきである。浩平だって長森にさえ「小さなときに、お菓子の国のお姫様になりたいと強く思っていた女の子がいたんだ」としか言えないじゃないか。永遠の世界なんて誰にも言えないので、もし作品が寓話だとしたら二重の寓話を紡ぐほかない。茜は勝手に先回りしてくれるけど。
透子はほんとのことを言っちゃったけど。たとえ話ひとつ編み出す才覚だか神経だかがないのが彼女の不幸というかどうしようもなさで、まあ彼女については僕の出る幕じゃないか。
「たとえ話は原始的な仮構で、その故にてあたり次第の言葉を並べるよりも本来の伝え難い気持ちを正確に暗示するのである。」とあるけれども、たとえ話が、ではなく、たとえ話としてしか言い得ないということそのものが、であり、本来の気持ちの内容ではなく何よりその伝え難さこそが実質なのだ、と言いたい。
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意味がないものを認めないのがニヒリズムであり、全てに意味があると考え(、その限界の外にあるものをポイ捨てする)るのはニヒリズムというかなんか別のもん。
あと資本主義は悪くない。すべてを金銭的価値観とか世間が認める価値でしか測れない奴は嫌いだというが、それはお互い様であって、価値を認めてくれる奴とだけつきあえばよろし。 世界とか社会に取ったらほとんどの人間は無価値だけれど、自分が貢献できるやつとか自分の存在を喜んでくれる人って1億人に1人くらいはいると思う。1人いれば十分。