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Kanon と ボルヘス

ttp://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2010/05/post-a1fc.html

なんと、月宮あゆの奇跡が孕んだ矛盾は、ボルヘスが半世紀以上も前に解いていたのだ。Kanon問題とは、ギャルゲやエロゲにおける平行世界的な構造の矛盾を示すもので、「あるキャラクターのルートに入ると、他のキャラクターが不幸になる」ことを指す。たとえば、栞ルートを選ぶということは、即ち、あゆが目覚めない未来に至ることになる。このKanon問題について、京アニが鮮やかな別解を示しているが、ボルヘスは「八岐の園」でこう記す。

時間の無限の系列を、すなわち分岐し、収斂し、並行する時間のめまぐるしく拡散する網目を信じていたのです。たがいに接近し、分岐し、耕作する、あるいは永久にすれ違いで終わる時間のこの網は、あらゆる可能性をはらんでいます。われわれはその大部分に存在することがない。ある時間にあなたは存在し、わたしは存在しない。べつの時間ではわたしが存在し、あなたは存在しない。また、べつの時間には二人とも存在する。

そして、それぞれの時間の系列を観測するための「外側」があることを示唆する。「八岐の園」では、循環する、円環的な本を語り手に想像させているが、まさにこの循環性は、「円環の廃墟」で暗示されている。さらに、「円環の廃墟」で循環の外側へ出るために必要なことは―――(ネタバレ反転)死ぬような運命に陥っているにもかかわらず一切の傷もなく、それゆえ自分も誰かの夢によって作り出されたことに気づいた瞬間、消え去ってしまう―――だからKanonに戻ると、これは、月宮あゆの夢の話ではない、という解釈も可能になってしまう。すげぇ、ドラえもんの偽最終回(暗黒バージョン)並みにブラッキーだ。

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ttp://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20070615/1181854558

究極のマルチシナリオ型ノベルゲーの理念はボルヘス「八岐の園」に描かれている。つまり無限に選択肢とパターンを持つ物語を指向する、というのがそれだ。しかし実際のノベルゲーは物理的限界に囚われているので、有限性に敗北し続ける。ならばその有限のパターンをコンプリさせる/すること(これを自分語で「コンプリートという審級」と呼ぶ)がツクリテとユーザーの眼目になる。その辺をアイロニカルにやるとループゲーになるということ、CROSS†CHANNELやFate/Hollow Ataraxiaで、その辺りについて自己言及的に描かれている、というのは何度か書いたことがあるけど、まあ、ループゲーにちなんで「同じことを繰り返す」のもまた良しかも。

ループゲーが有限性に囚われたマルチシナリオ型ノベルゲーの変奏であり、その反復がマルチシナリオを何度も繰り返すことの変奏である、という観点からすると、「終わらせる」方向にプレイヤーを誘導するように作られている大半のループゲーは、コンプリートという審級――つまりは物語を「完成させようとする」書き手と読み手の欲望に忠実であると解釈できる。

一方、HAはそれを緩やかに迂回し、延々と飽きるまで同じことを繰り返すことを許容していて、物語のケリをつけても、延々と同じことを繰り返すことが許された構造になっている。物語を「完成させること」がゲームの終わりではなく、そこにあるものを享受し続けたいと思う限り享受してよい、というおおらかな態度がそこにある。テキストは大半のループゲー同様、終わりへとひたすら指向する話なのに、ゲームシステムはそうではない。この捩れはいったい何に起因しているのか、少し興味がある

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ttp://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2007/03/kanon_a8a1.html
したがって、ギャルゲにおいて「ひとつのシナリオへ進む」とは、選ばなかった子が選ばれなかった運命をたどることを自動的に意味するものだと思っていた―― 真琴は行き倒れ、栞は病膏肓に入り、舞はいまでも闘いつづける―― それは、あゆ・名雪を選び取った結果なんだと。あるいは、秋子さんが病院送りになるならば、(それは名雪ルートであり)、あゆは目覚めることないはずだ―― そう決め付けていた。だから、秋子さんが1トンの乗用車に巻き込まれたとき、ルートは決まった、あゆはどうする? という疑問ばかりが心を占めていた。

それがどうだ、全ての女の子を救い、そして最適化されたルート、すなわちあゆエンドにまとめあげるとは―― しかも「奇跡はただ一つだけ」のお約束と矛盾することなく―― 正直、自分がいかに浅はかであったかが、京アニKanonの最終回でよーく分かったよ。グッドエンディングではなく、これこそベスト・エンディングなんだ。

たとえナユキストであっても、うぐぅ信者になれるんだ。「片方を選ぶと、もう一方は選ばれなかった」ことにはならないんだ。名雪シナリオにも、あゆエンドにもなりうる、そんな風の辿りつく場所があるんだ。ヲタでも嫁(≠脳内)とやっていけるんだ!二次元と三次元を同時に愛することは可能なんだ!ラピュタは本当にあったんだ!世界中にはどんな想いも、かなう日がくる。めったに起こらないから奇跡なんだけど、起きたらそれは必然と呼ぶんだ。

(個人の感想)いや、ベストエンディングのためになかったことにされる「問題」はどうすんだ・・・。でも京アニKanonはメタ的で良いっすよなぁ。原作知らんと何が感動的なんかさっぱりわからんけど、原作を知ってると傲慢ながらやっぱり良かった、って気にはなる。 それが罠なのかもしれんけど

  1. simatomoki posted this