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May
31st
Mon
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<さよならを教えて、について。主人公の狂気の描写がツマラナイ、という話をけっこう目にする。引き込まれるものがないとか。僕はこれを失敗とは思わない。「何者でもあれない」ということが、あの作品の肝だと思うので。

まずゲームシステムというかシナリオ構造からいえば、どのような経路を選んでも世界に大して意味のある行為はなしえずたんに主人公の中で空回りするだけだ、ということがいえる。このことは、表現のレベルでも対応がみられる。ようするに、主人公は狂気においてさえ凡庸で、その精神世界はどこまで行っても他人には意味をもたない、他人を引き込む力を持たないものだ。彼のつくりだした妄想は、オカルトにかぶれた思春期のガキが思いつくレベルを超えない。ようするに、ひとりよがりの電波だ。そこにはただ他者に対する意識の欠落した自我がたれながされるだけで、ひとの心を動かすための切実さを感じさせることに成功しない

誰にも見えない場所で狂ったように(というか実際狂って)かけずりまわって彼が見いだしたものは新たな閉塞でしかないことと、本人は必死なのだが他人にはいっこうに伝わらない、観客にさえ伝わらない、ということが、僕には切なくもあり悲しくもあり妙に安らぐものでもある。自分はこの程度でしかあれない、なんて悟りがあればかえって苛立とうというものだ。

狂気にロマンを求めるのもどうかと思うし。妄想にすすんで逃げ込むだけの強さもなく、不覚悟にも「生身の……少女の肌……うう」なんて洩らしてしまうくらいだから。広介はつまり、SUMMER篇の援護射撃もなく(それが結局は援護射撃でしかないこともいずれ語ろう)、ごぉるってゆった後も生き延びてしまって「今度は永遠の世界が」とか言い出した観鈴ちんなわけで。「次」などない、固有の特権的なものである必要があるのだ。>

加藤の犯罪を、共感すべきところがあっても絶対に断罪しなければいけない理由。 むしろ個人的には共感すら全く出来ない理由。 コメンテータが「気持ちはわかる」とか言おうものならイラつく理由。

大半の人は何者にもなれないのだ。 少なくとも現在においてはまだ。 にも関わらず、ああいう反則的な行動で自己を表現しようとした人間は絶対に許してはいけない。 万人に知ってもらう必要は無かった。自分の身の丈に合わせて一人だけでいいから、自分の味方を作る努力をすべきだったんだ。 敵を作って攻撃しちゃいけない。 しかも敵ですらなかった人を傷つけるなど。